馬鹿のこと

底辺の人。学がない。職能もない。そんな人間の言葉は、WEBの「邪魔な情報」か。誰の目にも止まらなければ、荒らしにはならないのか

いいことがある

  ねえちょっと、「いいことがある」なんて本当かよ。そんな話が本当にあるのかよ。タダより高いものはないよ、騙されちゃうよ、お前はいつか詐欺やらなんやらに騙されて怖い思いするかもよ、人を信じるなよ、そんな風に忠告されたってさ、わたしにゃわかんないよ。一般常識がないらしいからさ、判断がつかないって。わたしは夢みたいな善悪の判断にこだわるからね、現実的な損得の判断がつかないって、さ、そういう判断ね。だって、悪いこたあしたくねーよ。でも、そうだね、確かに損するのもやだね、でも損をするんだろうね、「正しい」ことをして損をするってんじゃなくてね、そんな夢みたいな選択は選べないからね、判断力がないらしいから。「正しい」と信じた結果に「悪い」行動をして、結局それで損をする、そういう人間だね。

 「いいことがある」って、なにさ。いいことって言われたってわかんないよ。そうだね、まずはひとつめのパターンを考える。「いいことがある」が意味するもの、のパターンにはどんなものがあるか、って想像してみる。「願いは叶う」ってことかな?わたしの心身にとって、プラスの出来事があればさ、まあそりゃあ「いいこと」だな。0.プラスだって思えるってことは ~その時わたしは満足を得られている状態にある~ ってことを示してるのかな。1.(私的な領域における"満足に思う"って状態は、身体や心が楽になった状態であるんじゃないの?)少なくともわたしにとっては、身体が健康で、心が健康であることが、満足であるって状態だよ。2.つまりは、そういう健康を支えるだけの、社会的充足・文化的充足(経済的な面であったり、ひいては心理的な面に踏み込んだりできるだろうね、この充足の範疇は)を得られるかってことで、私にとっての「いいこと」は。3.詳細を述べるならさ、・行きたかった場所に行けるとか、・会いたい人に会えるとか、・金が手に入るとか・ゲームをクリアできたとかでもいいな、・パートナーと幸せな生活を送れるとか、・なんか知らんが表彰されて誇らしいとか満足だろう・出世するとかもそうだ、まあ、よくわかんないけど、そういうごちゃごちゃな具体例もあげれるんだろうね「いいこと」って、そういうことかな。身体や心の健康を守ることで、人が満足感を覚えるとは限らないって?そりゃそうだろうけどさ、結局、楽になりたいんだと思うよ。楽になりたい。心がさ。楽になれるっていう、希望だね。願いだね。「いいことがある」っていうのはさ、そういう「願いは叶う」ってことじゃないの。それがひとつめの「いいことがある」。

 ふたつめの「いいことがある」っていうのはさ、「実は今、いい話を持ってるよ」って意図で発せられる言葉のことだと、想像をしてみる。「都合のいい取引がある」っていう、手段の提示。願いの具体例を叶えるために行うべき手段を、相手が示してくれてるわけだ。取引でかなえられるよっていう。これにゃ、いろんなフェーズの問題が含まれるよ、きっと、この想像の世界では。・人にやさしくすれば、きっといいことがあるよ。・この水のみゃ、病気が治るよ。・科学的根拠を提示してれば、この薬飲めば、病気は治るよ。こういう具体例に善悪、それかなんだろ倫理、法、科学的正確性を介在させなければ、フェーズとして存在するという問題提起にはなるんだと思うよ。問題提起に体系的な意義はないけど。まあ、そういう「いいことがある」は、誰の頭の上にもふりそそぐってことなんだって思ってる。つまりはみんな同じ判断なんて下せないってことだけど。でも、下せないってことはさ。

 それでさ、「いいことがある」ってどういうことよ?どういう、つじつまなら合うの?"願い"は叶うの?叶ったと自分で自分を、誰かを納得させることができるの、納得できるだけの"手段"を得られるの?結局、そこで"手段"を間違えるの、自分が納得できないとか、他人が納得できないとか、そういう結果しか生み出さない"手段"を選ぶってこと?今よりいいことなんて起こるの?もっと悪くなるんじゃないの?「いいことがある」ってなんだ?っていうさ。そりゃあ思いたいよ、願いは叶うって。叶うかどうかわかんないよ、叶うって信じようよ、言ってくれてありがとう。うれしかった。でも、たぶん、"手段"の選択でいっちばん重要視されるのは、他者に与える利益の有無だよ。そりゃ、詐欺が起こって詐欺った側に利益が出たからって詐欺が肯定されることはないって、そういうケースのほうが一般的な理解の例にあたるよ。でも詐欺られて困ったわたしがいて、無益なわたしが存在することが、社会の不利益だって、そういうのはまずいから、前を向くんだよ、結局。

 でもそれって、役立たずはだめだから前を向くために考えた「いいことがある」って発想なんてさ、長いけど、そういう発想なんてさ。きっとぜんぜん「いいこと」じゃない、根本的な解決には一生至らない、満足できない、当然だけど満足できない、根っこから楽になんてならない。でも"心身の健康"を可視化してリスト化して、ひとつずつ"楽になった部分"を増やしていくことはできるのかもしれないの。そうかな?増やせなくなったら、きっと人は地団太踏むんだね。恨むんだね。なんで恨むかっていったら、「いいことがある」、願いは叶うって、信じたいからだろうね。これは、みっつめの「いいことがある」ってこと。「いいこと」は存在する、っていう前提は「ある」、ありうるんだ、って意味での「いいことがある」。ひとつめとふたつめを、包括する形でのみっつめ。前提だからって、そう思う。

 パチン、ってスイッチを切ってさ、これは「いいこと」である/ないって、損得を基準に判断ができたらいいのに。詐欺にあったことは今のところまだない、わたしはよく言われる、あなた、痛い目にあったことがまだないから、判断力がついていないんだって、「いいことがある」って言葉にいつか騙されるって。あるいは、悲観的過ぎるからもっと「いいことがある」って考えたほうがいいって。希望を持てって。有益な人間になるために。さもなければ、生きていけないと。

 ねえちょっと、「いいことがある」って本当かよ。幸せになれるんかよ。今よりも幸せに。希望があるって。ご飯を食べたい、寝たい、独りは嫌だ。悪いことなんてしたくない、善いことをしたい。これまでの人生をなかったことになんかしたくない。願いは叶うって、手段はあるって。前提を否定しなくてすめばいいのに。

 ただいまっていったら、おかえりっていってほしい。

 

文章が書けない、よくあるはなし、よくあるはなし

 文章の書き方を忘れていく。時間がない。気持ちが晴れない。文章を書くことが、大切なことだと思えなくなる。よりいっそう、文章が下手になっていく。

 時間がない。端的に言って、自由に過ごせる時間が減った。学生の身分であれば、好きな時に好きなことが出来た。私は馬鹿なので、今までの人生、試験のための勉強をしてきた経験はあまりなかった。たいていの場合、自己の好奇心を満たすためだけに学業を修めてきた。つまり、これまでの修学は、単なる趣味の時間と等しかった。けれども、自由の時間がすべてとはいかなくなった現在は、あくまで限られた時間の中で、趣味の時間を確保しなければならないのだ。これまでと違って時間のやりくりというものが重要になるのだから、多少の無理が必要になるのは、当然だ。

 しかしながら、最近は実生活でいろいろな出来事が起こっていて、心身にプレッシャーがかかり、気持ちが晴れない。そのせいか(わからないが)、無理をしてでも読み書きをしよう、という気持ちが萎えている。集中が続かない。本を読んでも目が滑るし、文字を書いても文章にならない。頭がぐるぐるしているので、アウトプットができない。物事に対する興味関心が、どんどん薄れていっている。言葉に対する興味関心も同様に。

 文章を書くことは、私にとって大切なことであるのだと、思えなくなってきている。今までの人生、美しい文章(シンプルな文章)を読むこと・自分にとってわかりやすい文章(十分ではないが、自分にとってシンプルな文章)を書くことは、私にとって大切なことだったのだ。シンプルな読み書きは、理解が容易だ。容易な理解は、心に安らぎを与える。容易な理解、すべてがぴったりと、違和感がない。明快さ、美しさがある。不思議な達成感を得られる。私にとって、心の安らぎだった。なくなってしまうのだろうか。

 時間のなさが、そのまま心の余裕のなさに繋がっているような気がして、そうして、これまで大事にしていたもの・きれいなものも失ってしまいそうな、気がしているのかもしれない。よりいっそう下手な文章になる、きれいなものも見えなくなる。文章が書けない。書き方を忘れてしまった。元気がでない。からっぽだからだ。からっぽだからだ。

散歩

 リハビリ。

 今日は、ティツィアーノヴェネツィア派展を観に行った。きれいだな、むなしいな、と思った。後者は、展覧会には無関係な、ただの個人的な感情にすぎません。絵画は綺麗だ。私には、耽美に対する傾倒はないだろうけれども(後退に対する傾倒も)、知に対する傾倒だっておそらく同様にない。傾倒しようにも、知識がないのだ。知識がないので、展示の体系が掴めない。それが、むなしい。今までの人生、ほんの少しだけあったはずの、素人の暇つぶしの、いわゆる“読書の時間”に意味なんてあったのだろうかと自分自身に尋ねてみたくなる。昔読んだ本は、今じゃ頭の中からすっかりなくなってしまった。何も覚えていない。無能の体現だ。なぜ忘れてしまったんだろう。脳みそのスペックの問題かなあと思いつつ、それでもこれは面白いなと確かに覚えた知識があったはずなのに、それすら思い出せないのは、どうなんだろう。
 面白いと思ったから本を読んだんじゃないのか。今だって面白いと思うから、こうして美術館まで足を運んで《ダナエ》の前に立ってるんじゃないのか、という心に浮んだ言葉からくる、むなしさです。恥ずかしいなあ。恥ずかしいなあ…。それでも芸術を観てみたいと思う理由が知りたい(出来れば一般化された回答が)。いいものをみてインテリぶりたいのかも。自分に酔いたいのかも。みじめな自分を忘れたいのかも。忘れた本の内容を思い出したいのかも。面白いと思ったなにかを。ただ、このエントリーが不快なように、意味がないように、意味がないからこそ、世界は綺麗だ。私の与り知らぬ展示の体系は存在するだろうし、星空のように、図像的な解釈は広がりをみせる。絵画は綺麗だ。動機はともあれ、綺麗なものが観たかったのが、素直な気持ちです。

 そうして言葉を失って、ただきれいだとしか言えなくなる。

 

 途中で疲れてしまって、休憩を取りながら順路を辿ったんだと思う。すごく現実味がなかったから、少し記憶が曖昧だ??

 頭がぼんやりとして、ずらっと並んでいる聖母子像やキリストの姿(I 1460-1515|ヴェネツィア、もうひとつのルネサンス)を遠くからを眺めた。


 無教養人にはね、ダリ展で観た《形態学的なこだま》1936年や、クラーナハ展のレイラ・パズーキ《ルカス・クラーナハ (父)『正義の寓意』による 絵画コンペティション》2011年を思い出す、そういう瞬間があった。後者なんて、その瞬間その思考に対して、ぞっとするでしょう。私は自分自身にぞっとした。
 知識人のかたに言ったらどう思われるのかな、これが無教養人の地獄です。

 

 ルーヴル美術館展日常を描く―風俗画にみるヨーロッパ絵画の真髄は、展示が明快(?)なように、なんとなく思えて、素人でもとっかかりやすいように(もちろん私の解釈は正しくない/充分ではない)思ってしまった気がする。フェルメールの作品が浮いてみえたから、あれ?となったけど。なんで天文学者がこの場所に?今でも理由を知らないし、知ることもないんだろう。