馬鹿のこと

底辺の人。学がない。職能もない。そんな人間の言葉は、WEBの「邪魔な情報」か。誰の目にも止まらなければ、荒らしにはならないのか

散歩

 リハビリ。

 今日は、ティツィアーノヴェネツィア派展を観に行った。きれいだな、むなしいな、と思った。後者は、展覧会には無関係な、ただの個人的な感情にすぎません。絵画は綺麗だ。私には、耽美に対する傾倒はないだろうけれども(後退に対する傾倒も)、知に対する傾倒だっておそらく同様にない。傾倒しようにも、知識がないのだ。知識がないので、展示の体系が掴めない。それが、むなしい。今までの人生、ほんの少しだけあったはずの、素人の暇つぶしの、いわゆる“読書の時間”に意味なんてあったのだろうかと自分自身に尋ねてみたくなる。昔読んだ本は、今じゃ頭の中からすっかりなくなってしまった。何も覚えていない。無能の体現だ。なぜ忘れてしまったんだろう。脳みそのスペックの問題かなあと思いつつ、それでもこれは面白いなと確かに覚えた知識があったはずなのに、それすら思い出せないのは、どうなんだろう。
 面白いと思ったから本を読んだんじゃないのか。今だって面白いと思うから、こうして美術館まで足を運んで《ダナエ》の前に立ってるんじゃないのか、という心に浮んだ言葉からくる、むなしさです。恥ずかしいなあ。恥ずかしいなあ…。それでも芸術を観てみたいと思う理由が知りたい(出来れば一般化された回答が)。いいものをみてインテリぶりたいのかも。自分に酔いたいのかも。みじめな自分を忘れたいのかも。忘れた本の内容を思い出したいのかも。面白いと思ったなにかを。ただ、このエントリーが不快なように、意味がないように、意味がないからこそ、世界は綺麗だ。私の与り知らぬ展示の体系は存在するだろうし、星空のように、図像的な解釈は広がりをみせる。絵画は綺麗だ。動機はともあれ、綺麗なものが観たかったのが、素直な気持ちです。

 そうして言葉を失って、ただきれいだとしか言えなくなる。

 

 途中で疲れてしまって、休憩を取りながら順路を辿ったんだと思う。すごく現実味がなかったから、少し記憶が曖昧だ??

 頭がぼんやりとして、ずらっと並んでいる聖母子像やキリストの姿(I 1460-1515|ヴェネツィア、もうひとつのルネサンス)を遠くからを眺めた。


 無教養人にはね、ダリ展で観た《形態学的なこだま》1936年や、クラーナハ展のレイラ・パズーキ《ルカス・クラーナハ (父)『正義の寓意』による 絵画コンペティション》2011年を思い出す、そういう瞬間があった。後者なんて、その瞬間その思考に対して、ぞっとするでしょう。私は自分自身にぞっとした。
 知識人のかたに言ったらどう思われるのかな、これが無教養人の地獄です。

 

 ルーヴル美術館展日常を描く―風俗画にみるヨーロッパ絵画の真髄は、展示が明快(?)なように、なんとなく思えて、素人でもとっかかりやすいように(もちろん私の解釈は正しくない/充分ではない)思ってしまった気がする。フェルメールの作品が浮いてみえたから、あれ?となったけど。なんで天文学者がこの場所に?今でも理由を知らないし、知ることもないんだろう。